昭和48年6月3日 朝の御理解
佐田恵介
天地書附
「生神金光大神 天地金巧神一心に願 おかげハ和着心にあり 今月今日でたのめい」
朝晩、んー、唱え続けさせて頂く。これを、教祖は初めから、天地書付 というふうには、教祖様御自身おっしゃておられない。ただ、あたくしは、御神訓、御教えとして、えー、下さったんではないかと、こう思うです。天地書付といったような、後のものが付けたんじゃないかと思うですね。も、そりゃ、あたくしは詳しく知りませんけれども。んー、御教えの中から、この天地書付 が、もう金光教の、信心の、ま、いうなら、御題目ともいうべきもの。いつもなむあんだぶつなむあんだぶつを仏教信者が例えば言う、いうように、仏教者がいうように、金光様御信心さして頂くものは、いつもこれを、おー、心の中に、えー、唱え続けるというか、いや、この天地書付そのものがね、あたくし共金光教の信心さして頂く者の、ま、血の、血と肉になってし、まわなければならん、という事なん。というほどしに、えー、ありがたい御教えだと思うですね。そこで、あた(く?)し今朝から、御神前で、えー頂いた事と、この天地書付 と おー、おー、どういう風に、いー、頂くか、つながっておるかという事を、まあ、聞いて頂きたいんですけれども。今日とし?御神前に出らせて頂きましたらね。丁度あのー、割り箸のような のに、いー、蚊取り線香がこう挟んである。割り箸のよに。そしてそれを、こう手に持っておる 所を頂いた。だから皆さん、まずそこん所から、まず、あの、納得して頂かなきゃならんのですけれども。蚊取り線香というのは、いつもお知らせに、えー、少し、いー、あぁ、人間が足らんとじゃないじゃろかといったような時には、ありゃかと、蚊取り線香だとかね、ありゃ左巻きだとかというでしょ。ですから、信心では、ここで馬鹿と阿呆で道を開けと、こういうのですから、ほんとにあたくし共が蚊取り線香(せんこ)になりきってしまやね、わずらわしいという事はないんです。も、一切が、なーんでもない、いやる、大きな豊かな信心 という、い(ゆ)わば代名詞のようなもので。蚊取り線香、馬鹿と阿呆という事、ね。信心によって馬鹿と阿呆になるのですよ。生まれつきの馬鹿と阿呆(あほ)とは違うですよ、ね。よる信心によってどんな利口な人でも賢い人でも、馬鹿と阿呆になる事をけいこさせて頂いておるうちにです、ね。もう、やる、偉大な信心とでも申しましょうか、おーきな心。人が、ね、えー、顔にかかわるような事をいうてもしても、または難儀な問題に直面いたしましても、それを豊かな心で受けてゆけれるというのです。ですから、よる蚊取り線香たっ けば、たいて休めば、いやるわずらわしい 蚊に責められる事がないように、よるわずらし、わずらわしい事がなくなるという 意味なんですよね、蚊取り線香というのは。だから私は、和賀心とは、ま、大体そういうようなもんだと、ね。ところがそれをそのこう、箸のような物に挟んで手に持っておるという所がです、??、な、お互い一つ、か、考えなければならないと、ね。信心を、ありがたく楽しくしておる人は。信心を、も、やっとかっとしておる人があ(る?)。あ、こりゃもうピンからキリまでですよ。例えば御道の教師なら御道の教師にならせて頂いてもです。なら、まあ、御結界が、教会の中心でもあるし、御結界奉仕が、あー、教師の、うーん、命であります。ですから、な、ここに座らして頂くということが、も、やっとかっとという教師があります。ですから、も、いつも立とうごつしてこたえん。みんな、お参りしてきてから、もーしといわれてから、拍手(かしわで)がなってから、ようやく御結界つくという先生も沢山あるです。こりゃもう、やっとかっと教師の御用が出来ておるわけです、ね。ところがです、もうとにかく、ここへ座る事が楽しいん、ありがたい。も、どこにおるよりもここが一番。これがあたしは、あーもう、信心を楽しゅう、ありがとうしておる教師だと思うです。そういうとこならば人が助かります。けれどももう、ほんとにまるきりここは牢獄と同しこつ。も、こげな、こげな仕事は、も、孫子んどん、譲るもんじゃなかといったようなことを平気でいう先生があるです。そらそうでしょうね。どーこん、だからさあどっか、お祭りかなんかちぃ、おっごっつぉどん食べるごたっ時にはもう、てんで生き生きとしてから行く先生がある。今日はどこどこのお祭りじゃけんで、今日はおごっつぉが食べられるぞちいう訳でも、ねえ。それこそビニールの袋もっていかっしゃる。帰り??御直会入れて帰ってくる。それが楽しみのような、ひ、先生の所では、おかげ頂かれんです。ですから、今度叉、な、こりゃ、先生の場合です。信者の場合だってそうですよ。なら、朝参りでもしておる というなら、まあ、いうならば、教会でも、朝参り(を?) しておる信者というなら、熱心な信者という事になるでしょう。ところがその朝参りがです、も、やっとかっとという人があります。ね、もぉー楽しゅうして楽しゅうして、有り難うして有り難うして、今日はどういう御理解を頂けるじゃろうか、と心踊らして御参りをしてくる信者がある。朝参り組が。も、何か口実があったら、も、参らんでんよか。も、口実に便乗して、も、こげんとはやっとかっと朝参りがでけとる??。も、でけるだけなら参ろうご?なか。そいこそ、好きで参りよるとじゃなかばのちいうごたる 信者がある、ね。 わたくしは、そういう信心、そういう信者をです、あたしゃこう、蚊取り線香手に持っておるようなものじゃなかろうかと思うですね。もう、とにかく、だから、ほかんこつがでけんけん、ずっともっとらにゃでけん。だから、ちょいとそこに突き立てたら、もう、和賀心というものは取り落としてしもうとる。いわる、血に肉に。そりゃ、信心の過程において、あたくし共でもで、初めのあいだは、こげ、ほんとに、御結界に奉仕をする事が、も、つろうてつろうて泣くごたる時もあったです、やっぱ。けれども、辛抱させて頂いておるうちに、もうどこよりも御結界が一番ありがたい と いう事に段々なってきた。なら、朝参りでもそうです。ね、初めのあいだはもう眠うしてつろうして、というのがです。ね、例えば、んならもう、御参りをしてきてから(もう?)、御祈念中は、も、眠る時間のごと。御理解が始まるともう眠してこたえんちゅうのは、やっとかっと でけとるとです。ね、もうそれこそ眠か、眠かけれども御理解が始まったらバチーッと目が覚めるというなのが、あたしゃ楽しみに信心しよるとだ。(あ?)たしゃ、今日はそういう風に頂いてもらいたい。ね、こりゃまあ朝参りといやー も熱心。なあら、例えば月に一回、月に何回、月次祭だけと、いろんな信者が、ピンからキリまであります、ね。もー、お月次祭だけは一家中でおまいりするとを楽しみにしとります。というのもありゃー、あっ、忘れとった。あ、今日は、ほんにお月次祭じゃったてぃ、参らじゃこてで参って来よるともある。だから、そのピンからキリまでの信者の中にです、やはり、蚊取り線香手にもって、やば信心が、おっくになっておる。信心のある事がかいって迷惑になっておる。ほんに信心しとらんなら言いたい事?い、いうけれども、信心しとるばっかりでぐうぐういうちこらえとるというなんかは、信心が帰って邪魔になっとる。いわんですむ事がありがたい。ね、だから、お互いの信心の、ピンからキリまでの 過程の中にもです。ね、いうならば、蚊取り線香 手にもっておるような信心をしておる者。いや、その、蚊取りせんこ(線香)が自分の物になる。やる、馬鹿と阿呆になり、いうなら、和賀心が血に肉になって、きておるという うぅ 人もある。ここん所も叉、限度、限りがない事なんです。ありがたいという事なのですから。ありがたいという事にはもう、限りがないのです。 ね、ですから教師は教師て、あたしゃ、ほんとに ありがたい教師であろうか。ありがたい信者であろうか。ありがたい朝参り組であろうか。やっとかっとではなかろうか。いと思うてみてです。できんならば、一つ、ほんとうな所へ、め、願いをおいて、めざしを置いての信心にならなければならないという事になるですね。おかげは和賀心にあり。その、確かにおかげは和賀心にあんですから、その和賀心を取りはずしちゃならんと思うて、ちゃーんと持っとくという事はたい、大変である。 今月今日でたのめいとこうある。ね、だから、今月今日で頼むという事はです、どうぞ、わたくしの心の中に、和賀心がうせませんように、消えませんようにと、ま、願い続けるという意味もありましょうけれども、わたくしはね、いうならば蚊取り線香である。ね、朝なら朝の、ね、今日もどうぞ、和賀心で一日(いちじつ)を過ごさせて下さいという願いにです、いわば、火をつけるという事??。ね、火をつけるという事は、生き生きとした心で、信心の熱情を燃やすという事である。ね、火をつけるという。ね、つけたらもう、そこに、いうならば、あー、ひばつの中にゃ、ひばつの中に、こ、さしときゃいいわけである。火がついておればいちんち中それが燃えておる。わずらわしい事はないわ。あたしゃ今日は、今月今日でたのめいという事は、そういう事だというふうに、頂いて頂きたい。ね、だから、朝目が覚めたら、まず生き生きとした朝参りが、例えば朝の御祈念が、ね、生き生きとして、目覚ましのおかげを頂かして頂けれる、願いを立てなければいけない。はたして今朝の朝参りには、火がついとるだろうか。なるほど、蚊取りせんこ(線香)はもっとるにいたしましても、火がついとらなかったら値打ちはないということ。いかに金光様の信心を頂いておりましてもです。ね、信心に生き生きとしたものがもしなかったとするならばです、もうそれは値打ちはないということ。ね、さあどこどこの大祭じゃけんで、たのしゅうでいく先生とおなしこつ。ビニール袋持っていくととおなしこつ。まあきたない。けれども、その、おかげを頂くけん、ただ、やっとかっとついとるという信心ならそれとおなし事です。 ね、も、こりゃ例えば教会内、教会のな、内(ない)で生活させて頂きますあたくし共家族たちの場合なんかはです。どーうしてもその辺の所に、生き生きしたものかぎます。 ね、ですから、ほんとに生き生きした、それが、あのー、生き生きしたもの頂く為に、いかに、真の信心を目指すとか、信心の、おー、熱情といったようなものと。よる、求道心とでも申しましょう。信心を 求めてやまない。そして与えられる喜び、与えられる楽しみがです、わかってくる努力をしないならばです、もう、毎日毎日、朝から晩のことでございますから、それが、何とはなしに、ね。ただ 漠然と 金光様の 教会の 中で、金光様をただ唱えながら、生活しとうというだけに 終わってしまうだろう事になってはならん。ね。教会の中で、はーあ、も、ほんとに、朝から晩まで御理解頂いて、朝から晩まで拍手の音ーのする、いつも大ばらいの声が聞こえる。そういう中で生活さしてもらうけん、さぞよかろごたるけれども、実をいうたらひじょーに難しいです、かいって。ね。それは、月に何回か、参ってくる人たちが、もう生き生きとして、あのー、楽しんで参ってくる人たちがあります。まーいにち参って来よる???その生き生きしたもんが無くなるのとおんなじです。ね、いわゆる、マンネリになるという事が信心はいちっばん怖いです、ね。だからもう、その、信心の 信者としての 段階は今申しましたよ、ピンからきりまでありますよ。だから、どの段に自分がお。例えば、な、あさひり、朝参り組などというのは、もう、教会での一番よい信者なんです、いうなら。ね。んなら、良い、その信者の中にも、ピンからキリまで。やっとかっとんともありゃ、楽しいのもあるという事です。ね、そこで、はー、自分の信心をそこに おい、自分の胸に手を置いてみてです、こげなこっちゃいかん。こりゃ、自分の信心はマンネリ化しよるぞというふうにです、気付かして頂いて、それをたたいていくというか、ね、それにしぎょうを与えていくというか。そういう しぎょうが たえず心掛けられておらなければいけない。そうしていくうちに、やる和賀心というものが身に付いてく。いかにも身に付いたごとあるけれども、けえども、こに、今月今日でたのめいとおっしゃるよに、あとうども、今月今日、そこに火をつけていく。信心の熱をそこに 燃やしていく。そりゃ線香の火のような火いでもいい。ね、それこそ、あたれば熱っといったようなものの感じれれる 信心を頂かなければだめだという事。ね。ほらも、何十年朝参りが続いとってもです、もー、ほんとに、いー、もー、教会ついたら眠なるちいうごたる信心であったら値打ちはないです。 先日、えー、御月次祭のあとの、んー、御理解でしたかね。 あの、お花のお供えが沢山きてました。それを、愛子が御神事(ごしんじ?)にお供えしておった。それが、んー、その お花から 御理解を頂いた。今、庭に紅葉がいっぱいしこっとります。その青い、青々としたその紅葉を、だいたいの形 作って、そしてな、その、おーん、ま、乱れざしのように、菊の花が沢山入れてある。なかなか良いお花でした。その事から、まー、御理解を頂きました??、ね。あれは、はー、とことん、とんとこ節かなんかちいう、昔流行りましたよね。君にもろうたハンカチの、紅葉の模様が気に入らん。あれに紅葉が気に入らん。紅葉色づきゃ秋がくる、という御理解でした、ね。お互い信心が段々わかってくる。段々信心もありがたいということがわかってくる。けれどもそれが、おかげを頂くという事がありがたいのであって、信心をわかっていくのがありがたいというのでない証拠にです、ね、もう、ほんとよか信心さっしゃるといわれるような人達が、ちゃーんと、ね、あきがきてくる。はあ、あげん日参り夜参りしござったつが、もー、月何回かしゅうごつなっとる?。それでも、やはり、おかげは頂いておる、ね。だっけども 信心は、もうそこで止まってしまっておる。信心を頂くという生き方でなからなければで、神様の願いである、金光大神のほんとの値打ちというのはです。ね、氏子信心しておかげを受けてくれよ、というのはね、よる、ご、ただ御利益頂いてくれよ。ただ商売が繁盛さえすればよいといったようなおかげではなくて、ね。信心の、いうなら、御徳を受けてくれよと。力を受けてくれよと。そして、あいよかけよ。お前が助かる時には、神も助かっておるほどしの、おかげに 成長してくれよというのが、どーぞ信心しておかげを受けてくれよなんで。ところが、いかにも信心者のごとある ったけれども、やはりおかげが目当てであったと。だからおかげが、初めのあいだはもう一から全部にお取次ぎを頂いて、金光様でおかげ頂いた。?て大分財産がでけてきた。もうそれから先は自分でその財産を増やそうとする。ね、もう自分ががまださなければ、自分が、手をはずしたら、もう、やる、信心の方にゃおろそかになってくる。ね、なるほど、紅葉色付きゃ秋がくるわけです。だから、そげんとじゃ気に入らん、神様(が?は?)。ね、幹部でございます、総代でございますといわれるようになって、そういうふうに信心が落ちていくような事ではです。ね、信心にあきがくるような事であっては、いうなら、今日の御理解でいうならば、やっとかっと信心が続けられておるといったような事ではです。神様に対しても相済まん。自分も、いうなら、きつかばーっかり。ね、どうぞそのたのしゅうありがと出来れる信心。その過程においては、どことっとってもよいけれどもです。限りがない事ですから、信心とは、ね。いうならば、いうなら、生きた神様。今月は、あたくし御神前で、えー、おーきな水槽に、おーきな鯛が生き生きと泳いでおるのを、そのままお供えしてあるとこを頂いた。それが、御月次祭のときに聞いて頂いたですね。だから、鯛のお知らせといやぁ、おかげとおっしゃるから。ね、生き生きとしたおかげが受けられる月ぞと。そん為には、一つ生き生きとした信心をさしてもらわなきゃいけない。そして、その生き生きとした信心とは、ということを聞いてもらった。その、生き生きとした信心から、この生き生きとしたおかげが生まれてくる。ね、生き生きとした、そのおかげからです。いや、生き生きとしたその、おかげであって初めてです。ね、生き生きとして神様にお喜び頂けるような、御用がでけるのです。私ががまだしだしたといったような、たとえば、こりゃ 財の面であっても?、役にたたしません。ね、生き生きとした 神様、生き生きとした信心を頂いて、生き生きとした心で、生き生きとしておかげを現していくという信心、ね。ですから、もしこ、現しうるという事がです、ね。せっかく現すなら、神様にお喜び頂けるようなという事になってくる(です?)。ね、最近ここ、三、四日(さんよっか)その事ばっかりを頂いておる。昨日は、えー、竹内 先生とこのお母さんの、おばあちゃまの、おー、五十日祭でした。ほんとに、もうそれこそ真心一 杯の、おー、ですね。あたしゃ御神前でその事お届けさしてもらいよりましたら、たくーさん(沢山)の、しきゆく白菊の、菊の花にあの、生花屋に参りますと、あれに薄いちり紙でこう、むすんじゃりましょうが、ひらかんごと。あの紙をぜーんぶとったとこを頂きました。ということはで、親戚、竹内の遺族はもちろん、親戚の方たちもが真心を込めてで、この五十日祭というところで、紙をとったて。もお、さきしぎらず、つぼんどるともない。も、一様な真心をこう、あ、そろえて、あらわしたという意味でした。もう、んとにありがたい、いー、お祭りでした。御祭りがすんで御直会の時に、竹内先生が、あー、ご挨拶になっとられましたが、ほんとに、あのー、母の死という事がです、いかに神乍らなものであったかという事を、もう、十日祭、二十日祭、そして三十日祭四十日祭五十日祭を、こんど百日祭も丁度日曜になるそうですが、もう、土曜と、おー、日曜ばっかりだった。母が生前申しておりました。父ちゃん、あんたの邪魔になるような死に方はしてはならん。これがくちくせい、口癖であった。もお、ただただ恐れ入ってしまいますという、ご挨拶の中にそういう事いうておられます。ね。んなら、そういうおかげを受けれる竹内先生の信心はどういう事かというと、この頃もあの玄潮に発表しておられます たように、天恵地柱という事。あたくしの信心の筋金は、親先生にこの事を頂いて、これを信心の信条としとります。天恵地柱という事は、ちょっと字が違いますけれども、そういう意味で、御理解ですから、頂いてもらわんならんというて、えー、ま、申しておる事、申した事でございますけれども、ね。天の、天恵とは天の恵みとある。地柱というのは地の柱と書いてある。だからね、我こそ教会の柱にならん。我こそ金光教の柱にならん。我こそ世界の柱にならん。例えば、日蓮上人がいったような生き方なんです、いうなら、ね。自分一家の為じゃあない。教会の柱んでもならしてもらおうと。いうなら、神様のお喜びいただけれるような、信心にならせて頂きたいという、これが自分の信心の芯だ(という事?)。こんなら、天恵、や、天の恵みといや、も、限りがないものだと。ね、それを、最近は、では、も、とにかく教会の事を一生懸命願いなさい。今月は、やる大祓式があるから、大祓式の事ば願いなさい。どんなに病気しておっても、どんなに借金をもっておっても、そげな事苦にしなさんな。合楽教会とともに助かるという気になりなさい。これが昨日の御理解でした。合楽教会にも、五千万という、現在借金がある。あたくしゃ糖尿病という、腎臓病という病気がある。けえども、それを全然、私は問題にしていないように(で?)、みんながたとえ借金があっても、も、合楽と一緒に、共に 助かろうという生き方にいったら、合楽の教会の事願わなければおられん。なぜか。合楽の教会は大坪総一郎という人が 建てた教会ではなくて、ね、天地の親神様の神願成就の姿がこ、これなんだ。神様の願いがこのように現れておるんだ。だから、教会が発展をするという事は、神様のお喜び。難儀な氏子が取り次ぎ助けられる事の、為の教会である。場である。その教会の場がです、いよいよ繁盛する事を願うという事はです、よる、これは教会を中心にした願い。もうこれに、徹しよう、というのが、ここ四、五日(しごんち)の御理解です。(も?)自分の事なんか。もう、教会と共に。それちょこっとばっかり借金があると、も、それが頭がおむしてこたえん。はー、どうぞ借金払いがでけますように。はー、ちょっと体が悪いと、も、はよ健康にならして下さい。そしにゃ御用が出来ませんからというて、まるきり神様を拷問にかけるような言い方をする。それじゃつまらん、ね。もう親先生と一緒に全快すりゃえいという気持ちになれ。ね、ただし病気なりでも、ごよん(御用)だけはつこうて頂くというような気持ちになれ。借金にゃいくらもっとったっちゃかんまん?。合楽と一緒に借金払いが出来るようなおかげを頂く為に、合楽教会の事を芯にして願え。これが天恵地柱、ね。そういう信心にです、お互い生き生きしてくる所から、ね。 あたくしは、それこそ目が覚めるようなおかげになってく。同じ、例えば、ね、朝参り組なら、あされ、朝参りという ならばで、教会では、も、いうなら、よかご信者さんです、朝参りがでけとる ちいうなら。けれども、そのよか信者さんの中にもピンからキリまであるという事。ね、やっとかっと御参りがでけとるという人。ね。何かちょっと事があると、もうそれ便乗しておま、こげな訳でございましたからと。ね、そういう事では、も、参ろうと思やどんな場合、どんな事ででも出来ると。ね、そういう熱情がです、あたくしゃ、と、火をつ、香取線香に火をつけることだ。しかもそれをです、持ち続けるということは、自分の手にもっておるのではなくて、ね、自分の信心の血に肉になる。朝参りがたのしゅうてたまらん。ね。教会が近づいてくると胸がおどろごとある。と いったようなね、信者、信心をまあいうならば、第一級の信心としなければならない。だから、せっかくさしてもらうならば、いうならね、それこそ眠気の覚めるくらいな信心。ね、よる第一級の信心信者を 目指さして頂くという事。今日は天地書附をそういう風に頂いてもろうたですね、どうぞ。